弱酸性デメリット

なんか書く

伊藤計劃について最近キレてること

ちょっと怒りたかったことがあったので書きます。ブログ本来の趣旨とは違うことを読者様にお詫びします。
最初に言う。伊藤計劃を神格化するな。
僕は文庫の虐殺機関を読んでから彼のファンであり僕の人生を変えた人だと思っている。今でこそ粗い部分も見えるがハーモニーも虐殺も彼の短編も映画評論ですら惜しい人物を亡くしたと思わせてくれる。
また、日本SFを盛り上げた意味でも彼は大きい存在だ。SFに興味がなくても計劃個人を好きって人は多い。
しかし、ポスト計劃だのproject itohだの計劃以後の日本SFだのどうにも計劃を過剰に持ち上げる人が余りにも多い。多すぎる。
本当に計劃は日本SFを変えたのかと言えば疑問である。計劃の作品の主題、世界観に関して言えば既存のSFに比べて斬新というわけではない。例えば虐殺機関の「人を操る言語」は山元弘の短編で同じような話がある。勿論、どちらかがパクった訳ではなく、わりとありふれたアイデアなのである。そもそも言語SFは神林長平氏などがいくつもの画期的な小説を出しており言語をテーマにSFを書いたのは計劃が最初とか言うのは正直勉強不足だ。他にもディストピア的世界観はジョージ・オーウェルバロウズのアイディアが色濃く出ている(ハーモニーは特に顕著だった)
計劃の著作はSF界に突然表れた特異点ではない。
また、これだけ持て囃されているのに伊藤計劃系譜を受け継ぐ作家は全然話題に登らない(柴田勝家氏なんかは計劃に影響を受けたと言っているが)
SFの一大ムーブメントを築いた寵児であるディック、バラード、ギブスンはあとに作風を継いだ作家がゴロゴロ出てきたにも関わらず計劃を継いだ作家は円城塔氏ぐらい、しかも遺作を書き上げただけで両氏の作風はまったく異なる。
また、作品として論理性に欠ける所も多い。虐殺機関の最後のシーン、アメリカを罰するシーンは明らかに理由に乏しい。ハーモニーも上げれば論理的欠如はかなりあるだろう。それは作品としての出来を落とすことではない。しかし、完全無欠な小説というわけでもないと言うことだ。まだ未完でありこれから伸びるという意味では本当に惜しい人を亡くしたと思う。
しかし、能力独創性で計劃と並ぶ作家は他にもいる。
ではなぜここまで計劃だけが持て囃されるのか
ぶっちゃけ言おう。

彼が長い闘病生活の中で作品を書き続け、そして亡くなったからだ。

嘘だと思うなら彼の受賞歴を見てみるといい。星雲賞ですら彼の死後に与えられたものだ。そのときまで日本SF界は彼のことなんてちーっとも関心無かったんじゃなかろうか(一応補足すると日本SF界隈の重鎮である大森望氏は彼のことを生前から高く評価していた)
で、売れたじゃん?売れないSF界隈でマルドゥック・スクランブル以来の馬鹿売れじゃん?
これはビジネスチャンスだって思ったんだろうね。あれよあれよという間に美談が盛り込まれ天才だ天才だ持て囃され時代の寵児だポスト伊藤計劃だ日本SFを変えただの生前は見向きもしなかった人達が言うわけだ。
美談だけを見て彼の著作に耳を傾けているのか。僕は劇場版ハーモニーを見たときに失望した。原作をちゃんと読んでいればこんな作品は作らないだろうとおもった。映画にするから仕方ないって?監督のオリジナリティが大切だって?だったらproject itohとか名乗るなよ。
いい加減にして欲しい。今の持ち上げは彼を貶めているとさえ思う。
これでブームが過ぎたらどうするつもりなのか?
また誰かが死ぬのを待って死んだ後に彼は素晴らしい人だった惜しい人を亡くしたとか言いながらもちあげるのか?
止めてくれ、もう耐えられない。
今現役の作家に目を向けてくれ。計劃でなくても日本SF界には素晴らしい作家がたくさんいるのだから。

ここまで書いてなんだが僕の計劃観は歪んでいるかもしれない。その理由としてそもそも計劃に思想を求めてないからだろう。
計劃はエンタメだ。
メタルギアのノベライズとかジェームズボンドをネタにした小説とか、ハーモニーの追っ手から逃げるシーンとかインドでジョン・ポールを拘束するシーンとか(文庫本で加筆された所だっけ?)堅苦しいものではなく気軽に楽しめるエンタメ小説として見ても優れている。
また計劃はジュブナイルだ。社会に抑圧された「わたし」の拙くとも切実な叫びに僕は胸を打たれた。自意識過剰で、多くの場合社会に抑圧されていると感じる青年期の子供たちの胸にクリティカルだったろう。僕もその一人だ。僕が読んだのが高校生のときでなければまた評価も変わったかもしれない。

こういう読み方もあるのだ。僕は計劃を堅苦しい思想の世界に落としこめるのを望まない。哲学者が持論を主張する媒体に使われるのを望まない。

僕は思想ではなく、計劃が好きだからだ。

長い話をしましたがこれで終わりにします。
偏見に満ちた話をしてご免なさい。
次は全うに紹介記事をあげるからよろしくね。

バットマンを止めた日

記念すべき第一回の作品についてお伝えします。
監督は「インセプション」、「メメント」で知られる天才クリストファー・ノーラン

主演は「太陽の帝国」でこどもの時からその才能を発揮していたクリスチャン・ベール
アメリカの人気コミックのキャラクター、バットマンを主人公にした俗に言うノーラン版バットマン三部作の中の一つ
バットマンダークナイト……
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の続編である
ダークナイトライジングについてお話しします
(英名dark knight rises)
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……異論は聞きません。まずはあらすじから
*ネタバレ注意
雑なあらすじ
物語はダークナイトから数年後、「デント法」は若干の問題を抱えつつも有効に機能していた。法の発案者であるハービー・デントの悪事は隠され、彼は死後英雄として祭り上げられる。一方、バットマンはデントの罪を被り、悪人として扱われていた。彼に命を救われたゴードン警察署長はバットマンの名誉回復のために真実を記したスピーチをしようとするが、偽りの平和でも人々の安穏の暮らしを壊すことに躊躇う。
一方、バットマンの中の人、ブルース・ウェインダークナイト事件でのショックから屋敷に引きこもっていた。もう二度とバットマンとして活動することはないと思っていたブルースだが、キャット・ウーマンとその後ろに潜むベインの暗躍を知ると再びバットマンとして戦うことを決意する。
ブルースの執事アルフレッドはいい年してその恰好はないだろうバットマンとして活動することに反対し、二人は決別する。
その後ベインの策略によって一文無しになってしまうと踏んだり蹴ったりのブルースだったがベインの隠れ家を突き止めることに成功。しかし、それも罠でありバットマンはベインに敗れ遠い異国の地に幽閉されてしまう。
こうしてバットマンのいなくなった無防備なゴッサムでべインは師匠ラーズアルグール(一番最初の敵ですね)の指示通りに腐敗した都市ゴッサムを滅ぼそうとする。偽りの平和をあざ笑うようにデントの真実を市民に突き付け、刑務所の犯罪者を開放し、最後には中性子爆弾ゴッサムを滅ぼそうとする。
それに対し監獄から抜け出してきたバットマンは警察官と協力してベイン達との戦いに挑む。
ベインを倒すことには成功したものの中性子爆弾の解除に失敗したバットマンは飛行機に爆弾を抱えて海に捨てようとする。ゴジラが生まれたらどうすんだ
結果的にバットマンの英雄的行為によってゴッサムは救われたがバットマンは行方不明になる。バットマンの銅像を作り彼の行為を称える市民。
一方、アルフレッドは失意の旅行中にあるレストランに立ち寄る。なんとそこで死んだはずのブルース・ウェインと遭遇する。
奇しくもそれはアルフレッドが主人に語ったバットマンをやめたブルースの姿にそっくりだった。
バットマンでなくなったブルースの顔は晴れやかだった。
世間の評判
名作の続編としてテレビなどでも大きく取り上げられた本作であるが作品としての評判は正直言っちゃって微妙である。
第一にシナリオにつっこみどころが多すぎる。爆発の中心にいても生きてるとか序の口で、軍に隔離されたはずのゴッサムになぜか普通に戻ってきてるブルースとかなぜか銃を使わず殴り合いで戦い始める警官隊とか公にされたら大問題なスピーチ原稿をシュレッダーにかけずに持ってるゴードンとか粗が多すぎる。ノーラン監督の魅力といえば伏線のうまさであるが本作でのそれは振るわない。ていうか原作ファンなら最初に見ただけでこいつ黒幕でしょって大体察する。
第二にアクションが微妙である。ノーラン監督は映像美に関していえば稀代の天才だと思うが、アクションを撮るのは下手だ。バットマンビギンズのアクションもひどかったがライジングも大概ひどい。警官隊の戦闘はチンピラの喧嘩みたいだった。
結論として言えばダークナイトが三部作の中で異端であり、化学反応を起こしたか何かして生まれちゃった超名作だったわけだ。
(勿論、ノーラン監督のほかの映画はすごい面白いよ。インセプションマジお勧め)

とまあここまでぼろくそ叩いたわけだが、筆者としてこの作品には語りたいことがあるのである。ダークナイトのジョーカー役のヒース・レジャーが云々とかそんなありふれた話ではなく、本当の意味で話したい事がある。
それはこの作品でバットマンバットマンをやめたことだ。
バットマンが生まれた日
バットマンが生まれた理由は作品によっていろいろあるのだが一番有名なのは両親の死だろう。子供のころに両親を失ったブルース・ウェインは両親が殺され孤児が生まれることのない世界を目指そうとする。世界中を放浪して心身を鍛え上げ、ゴッサムに帰ってきたブルースは手始めにチンピラをボコるがそれではだめだと気付く。捕まえても出所して事件を起こすだけだと。そして、彼はこの町の悪人の恐怖となるためにバットマンという恐怖の象徴を生み出したのである。なぜ蝙蝠かというとそれが自分にとっての恐怖の象徴だから。
さて、話は変わるが、筆者にはこういう疑問がある。
バットマンにとって一番の不幸とは何か?
両親が死んだこと?
悪人と戦い続け大切な人を傷つけられること?
そもそもゴッサムとかいう地獄みたいな町に生まれちゃったこと?
それは不幸であっても一番の不幸ではない。僕が思うブルースの最大の不幸は、バットマンを目指すために必要な財力、筋力、そしてあきらめない不屈の精神力を持ったことである。
もし仮に僕がブルースであったとしたら両親の死はとてつもない不幸だろう。それでもバットマンにはならない。そんなの無理だとあきらめられるからだ。孤児が生まれない社会、犯罪が起こらない社会、そんなのを作れるはずがないと諦めてしまう。彼にはそれができない。なぜなら彼にはそれができてしまうのではないかと錯覚してしまうほどの力があるから。
バットマンは自覚しているのだろうか。自覚していると僕は思う。度々バットマンバットマンであることをやめる。しかし、絶対にやめっぱなしになることはない。フランク・ミラーの名作コミック、ダークナイトリターンズでは50代にもなって現役に復帰する。やめらんないのだ。費やしたものが多すぎるから。青春を費やし、資材を費やし、大切な仲間を何人も失った。バットマンの否定はもはやブルース・ウェインの否定である。
しかし、なぜ本作ではバットマンをやめることができたのか。ノーラン三部作のテーマと絡めて話していきたい。
バットマンが死んだ日
ノーラン三部作の前、「ナイトメアビフォアクリスマス」などで知られるティム・バートン監督のバットマンと本作の雰囲気には大きな違いがある。あくまで個人やキャラクターを全面的に押し出すバートン版バットマンに比べてノーラン版はテロリズムに巻き込まれる集団に大きく目を向けている。911事件からよく使われるテロという言葉の語源はテロル=恐怖であり、ノーラン監督は度々「恐怖」を描いている。バットマン自身が「恐怖」の象徴になろうとしているし、ビギンズのスケアクロウは恐怖を与えるガスを使っていた。ジョーカーは恐怖に追い込まれた人々が凶行に追い込まれてしまうことを試そうとした。それはバットマンがいくら頑張ったところで救えない。バットマン自身も幼少期のトラウマと恐怖はずっと残り続けている。
じゃあ、テロル=恐怖に勝つことはできないのか。理不尽な暴力を振るう者に屈するしかないのか。
本作においてそれは必ずしも正しくない。ダークナイトでは自らの命がかかっていても恐怖に負けて人を殺すことをしなかった市民の勇気、圧倒的に不利な状況でも悪と立ち向かったゴードンを始めとする警官隊達の意思。そういった勇気がバットマンだけでは救えなかったひとを救った。僕がこの作品に感じたことは恐怖に負けない、テロに屈しない人々の姿だ。
バットマンは最後に爆弾を抱え、殉死(実際はしてなかったけど)して銅像になった。奇妙なことに恐怖の象徴を目指していたバットマンはその時から悪に立ち向かった勇気の象徴となった。人々はこれを見て不正や犯罪と立ち向かうのだろう(余談だけどBVSにもそれを感じさせるシーンがあった)
それはブルースにとっても良い妥協点だったのかもしれない。バットマンが目指したような犯罪のない社会は無理だった。バットマン自身も無理だと分かっていながら戦い続けていたのかもしれない。結局、犯罪はなくならなかったし、孤児が生まれる可能性がなくなったわけでもない。しかし、彼らゴッサム市民は悪に屈することなく正しい生き方を模索するだろう。ゴッサムシティは堕落と腐敗の都市ではなくなった。バットマンは死んでゴッサムの勇気の象徴として生まれ変わり、ブルースはその呪縛から解き放たれた。バットマンの戦いは終わったのだ。



と、いい話にまとめたところでバットマンとスーパーマンが戦う映画が出たわけですけど(一応ノーラン三部作とは別物の設定)。バットマンはまだ戦うらしい。まあ、大人の都合もあるしねしょうがないね。
それでもバットマンがたどり着いた一つの道としてこのような結末を書いたのはバットマンどころかヒーロー映画でも珍しい。
その点に関していえば僕はノーラン監督はすごいと思う。ヒーロー映画なんて大概俺たちの戦いはこれからだで延々続けるしね。

と、ここまで映画の話を延々したので次は漫画の話をしようと思う。次があれば。
またね!

始めに

はいどうもこんにちはsasakunです。Twitterでフォローしてくださっている方でこちらに飛んできてくださった方はありがとうございます。
今現在くっそ忙しい就活中にブログを開設するという気が狂ったようなことをしているわけですがこれには理由があります。
この前久しぶりに高校の友達とあって話をしたわけですがTwitterの長文ツイートうぜぇ(要約)と言われてしまいました。まぁ、僕もこれは自覚していて140字のポストを連続すればそれは嫌でしょう。
それに一つのことを要約して話すにはTwitterよりもブログの方が優れていると思います。
さて、前書きも終わったところで本ブログの趣旨と注意について書きます。
本ブログは筆者(僕ですね)が印象に残った作品について考察を書きます。
作品としては太陽の帝国のような芸術作品から月刊少女野崎くんなどのエンタメ作品など幅広く取り上げていきたいと思います。また、少し知名度の低い作品を優先的に取り上げていきたいと思っております。
ダークナイト名作だよ!とか言われてもはぁそうですか、で終わりますしね。
それで注意点なのですが基本的に話がくどいです。
めんどくさいオタクなので。
あと特定の人の悪口は言います。内田樹とか内田樹とか内田樹とか。
不定期です。今めっちゃ忙しいです。
以上です。
僕の好きな言葉に「テキストの自己増殖」という言葉があります。テキスト(作品)とは作者が作った時点で完成するのではなく作者が出したものを読者が各々解釈することによって多様な意味と含みを持つわけです。
ここに置いておく私の解釈が新たな作品の発見と共に新たな解釈の発見となり皆様の読書や映画鑑賞に幅を持たせることが出来れば幸いです