弱酸性デメリット

なんか書く

バットマンを止めた日

記念すべき第一回の作品についてお伝えします。
監督は「インセプション」、「メメント」で知られる天才クリストファー・ノーラン

主演は「太陽の帝国」でこどもの時からその才能を発揮していたクリスチャン・ベール
アメリカの人気コミックのキャラクター、バットマンを主人公にした俗に言うノーラン版バットマン三部作の中の一つ
バットマンダークナイト……
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の続編である
ダークナイトライジングについてお話しします
(英名dark knight rises)
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……異論は聞きません。まずはあらすじから
*ネタバレ注意
雑なあらすじ
物語はダークナイトから数年後、「デント法」は若干の問題を抱えつつも有効に機能していた。法の発案者であるハービー・デントの悪事は隠され、彼は死後英雄として祭り上げられる。一方、バットマンはデントの罪を被り、悪人として扱われていた。彼に命を救われたゴードン警察署長はバットマンの名誉回復のために真実を記したスピーチをしようとするが、偽りの平和でも人々の安穏の暮らしを壊すことに躊躇う。
一方、バットマンの中の人、ブルース・ウェインダークナイト事件でのショックから屋敷に引きこもっていた。もう二度とバットマンとして活動することはないと思っていたブルースだが、キャット・ウーマンとその後ろに潜むベインの暗躍を知ると再びバットマンとして戦うことを決意する。
ブルースの執事アルフレッドはいい年してその恰好はないだろうバットマンとして活動することに反対し、二人は決別する。
その後ベインの策略によって一文無しになってしまうと踏んだり蹴ったりのブルースだったがベインの隠れ家を突き止めることに成功。しかし、それも罠でありバットマンはベインに敗れ遠い異国の地に幽閉されてしまう。
こうしてバットマンのいなくなった無防備なゴッサムでべインは師匠ラーズアルグール(一番最初の敵ですね)の指示通りに腐敗した都市ゴッサムを滅ぼそうとする。偽りの平和をあざ笑うようにデントの真実を市民に突き付け、刑務所の犯罪者を開放し、最後には中性子爆弾ゴッサムを滅ぼそうとする。
それに対し監獄から抜け出してきたバットマンは警察官と協力してベイン達との戦いに挑む。
ベインを倒すことには成功したものの中性子爆弾の解除に失敗したバットマンは飛行機に爆弾を抱えて海に捨てようとする。ゴジラが生まれたらどうすんだ
結果的にバットマンの英雄的行為によってゴッサムは救われたがバットマンは行方不明になる。バットマンの銅像を作り彼の行為を称える市民。
一方、アルフレッドは失意の旅行中にあるレストランに立ち寄る。なんとそこで死んだはずのブルース・ウェインと遭遇する。
奇しくもそれはアルフレッドが主人に語ったバットマンをやめたブルースの姿にそっくりだった。
バットマンでなくなったブルースの顔は晴れやかだった。
世間の評判
名作の続編としてテレビなどでも大きく取り上げられた本作であるが作品としての評判は正直言っちゃって微妙である。
第一にシナリオにつっこみどころが多すぎる。爆発の中心にいても生きてるとか序の口で、軍に隔離されたはずのゴッサムになぜか普通に戻ってきてるブルースとかなぜか銃を使わず殴り合いで戦い始める警官隊とか公にされたら大問題なスピーチ原稿をシュレッダーにかけずに持ってるゴードンとか粗が多すぎる。ノーラン監督の魅力といえば伏線のうまさであるが本作でのそれは振るわない。ていうか原作ファンなら最初に見ただけでこいつ黒幕でしょって大体察する。
第二にアクションが微妙である。ノーラン監督は映像美に関していえば稀代の天才だと思うが、アクションを撮るのは下手だ。バットマンビギンズのアクションもひどかったがライジングも大概ひどい。警官隊の戦闘はチンピラの喧嘩みたいだった。
結論として言えばダークナイトが三部作の中で異端であり、化学反応を起こしたか何かして生まれちゃった超名作だったわけだ。
(勿論、ノーラン監督のほかの映画はすごい面白いよ。インセプションマジお勧め)

とまあここまでぼろくそ叩いたわけだが、筆者としてこの作品には語りたいことがあるのである。ダークナイトのジョーカー役のヒース・レジャーが云々とかそんなありふれた話ではなく、本当の意味で話したい事がある。
それはこの作品でバットマンバットマンをやめたことだ。
バットマンが生まれた日
バットマンが生まれた理由は作品によっていろいろあるのだが一番有名なのは両親の死だろう。子供のころに両親を失ったブルース・ウェインは両親が殺され孤児が生まれることのない世界を目指そうとする。世界中を放浪して心身を鍛え上げ、ゴッサムに帰ってきたブルースは手始めにチンピラをボコるがそれではだめだと気付く。捕まえても出所して事件を起こすだけだと。そして、彼はこの町の悪人の恐怖となるためにバットマンという恐怖の象徴を生み出したのである。なぜ蝙蝠かというとそれが自分にとっての恐怖の象徴だから。
さて、話は変わるが、筆者にはこういう疑問がある。
バットマンにとって一番の不幸とは何か?
両親が死んだこと?
悪人と戦い続け大切な人を傷つけられること?
そもそもゴッサムとかいう地獄みたいな町に生まれちゃったこと?
それは不幸であっても一番の不幸ではない。僕が思うブルースの最大の不幸は、バットマンを目指すために必要な財力、筋力、そしてあきらめない不屈の精神力を持ったことである。
もし仮に僕がブルースであったとしたら両親の死はとてつもない不幸だろう。それでもバットマンにはならない。そんなの無理だとあきらめられるからだ。孤児が生まれない社会、犯罪が起こらない社会、そんなのを作れるはずがないと諦めてしまう。彼にはそれができない。なぜなら彼にはそれができてしまうのではないかと錯覚してしまうほどの力があるから。
バットマンは自覚しているのだろうか。自覚していると僕は思う。度々バットマンバットマンであることをやめる。しかし、絶対にやめっぱなしになることはない。フランク・ミラーの名作コミック、ダークナイトリターンズでは50代にもなって現役に復帰する。やめらんないのだ。費やしたものが多すぎるから。青春を費やし、資材を費やし、大切な仲間を何人も失った。バットマンの否定はもはやブルース・ウェインの否定である。
しかし、なぜ本作ではバットマンをやめることができたのか。ノーラン三部作のテーマと絡めて話していきたい。
バットマンが死んだ日
ノーラン三部作の前、「ナイトメアビフォアクリスマス」などで知られるティム・バートン監督のバットマンと本作の雰囲気には大きな違いがある。あくまで個人やキャラクターを全面的に押し出すバートン版バットマンに比べてノーラン版はテロリズムに巻き込まれる集団に大きく目を向けている。911事件からよく使われるテロという言葉の語源はテロル=恐怖であり、ノーラン監督は度々「恐怖」を描いている。バットマン自身が「恐怖」の象徴になろうとしているし、ビギンズのスケアクロウは恐怖を与えるガスを使っていた。ジョーカーは恐怖に追い込まれた人々が凶行に追い込まれてしまうことを試そうとした。それはバットマンがいくら頑張ったところで救えない。バットマン自身も幼少期のトラウマと恐怖はずっと残り続けている。
じゃあ、テロル=恐怖に勝つことはできないのか。理不尽な暴力を振るう者に屈するしかないのか。
本作においてそれは必ずしも正しくない。ダークナイトでは自らの命がかかっていても恐怖に負けて人を殺すことをしなかった市民の勇気、圧倒的に不利な状況でも悪と立ち向かったゴードンを始めとする警官隊達の意思。そういった勇気がバットマンだけでは救えなかったひとを救った。僕がこの作品に感じたことは恐怖に負けない、テロに屈しない人々の姿だ。
バットマンは最後に爆弾を抱え、殉死(実際はしてなかったけど)して銅像になった。奇妙なことに恐怖の象徴を目指していたバットマンはその時から悪に立ち向かった勇気の象徴となった。人々はこれを見て不正や犯罪と立ち向かうのだろう(余談だけどBVSにもそれを感じさせるシーンがあった)
それはブルースにとっても良い妥協点だったのかもしれない。バットマンが目指したような犯罪のない社会は無理だった。バットマン自身も無理だと分かっていながら戦い続けていたのかもしれない。結局、犯罪はなくならなかったし、孤児が生まれる可能性がなくなったわけでもない。しかし、彼らゴッサム市民は悪に屈することなく正しい生き方を模索するだろう。ゴッサムシティは堕落と腐敗の都市ではなくなった。バットマンは死んでゴッサムの勇気の象徴として生まれ変わり、ブルースはその呪縛から解き放たれた。バットマンの戦いは終わったのだ。



と、いい話にまとめたところでバットマンとスーパーマンが戦う映画が出たわけですけど(一応ノーラン三部作とは別物の設定)。バットマンはまだ戦うらしい。まあ、大人の都合もあるしねしょうがないね。
それでもバットマンがたどり着いた一つの道としてこのような結末を書いたのはバットマンどころかヒーロー映画でも珍しい。
その点に関していえば僕はノーラン監督はすごいと思う。ヒーロー映画なんて大概俺たちの戦いはこれからだで延々続けるしね。

と、ここまで映画の話を延々したので次は漫画の話をしようと思う。次があれば。
またね!