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弱酸性デメリット

なんか書く

アメリカンスナイパーという西部劇

またまた後編を放置して申し訳ないがどうしても書きたいことができたので。
さて、少し前に話題になったアメリカンスナイパーを見たのだが、これが非常に興味深い内容だった。そこには「ヒーロー」についてのイーストウッド監督の考えが出ているように思えたからだ。本作は実際の人物をもとにしたこと、米軍を好意的に書いていることなどから戦争プロパガンダ映画と評価する人も多いらしい。それは勿体無い見方だ。この作品の魅力に一ミリも迫れていない。
今回はあくまで僕の解釈について話そうと思う。
あらすじは今回は書かない。みた人にしかわからないだろうしね。
本作の理解にあたっては二つの対比を用いたい。
内と外。その二つでこの映画は成り立っている。
内とは家庭でありアメリカであり戦地ではない場所
外とはイラクであり、テロが起きた場所であり戦場
その二つの描写を交互に描いてこの作品は成り立っている。
元カウボーイの主人公クリスはある日テレビでテロを見たことから強い怒りを覚えて兵士に志願する。以後テレビは外と内を繋ぐ一つの窓口として描かれる。クリスは射撃の才能を発揮し、いつしか伝説として呼ばれるようになる。ただそれは外での話、家庭という内に置いては彼はただの子を愛する父親である。むしろ外で伝説な彼は内によって弱く(脆く)なる。たとえば最初の殺人では比較的抵抗感なく殺せた子供も段々と殺すことを躊躇うようになる。それは彼に子供ができたからだ。さらに妻の存在が戦場で完全無欠な彼の行動を鈍らせる。クリスは内であることを捨てれば捨てるほど強くなるのだ。それはイラクに派遣される回数を重ねれば重ねるほど強くなる。平和なアメリカ国内でも空砲の音に驚かなくなり、日本製のトラックを注意深く観察する(これは中東のテロリストが良く日本製のトラックを用いるからだ)
印象的なシーンがある。病院に生まれたばかりの娘を見に行くシーン。泣き叫ぶ娘を気にして看護婦を呼ぶが誰も反応しない。まるでクリスは空気のようだ。クリスは怒鳴る。最初見たときにはベトナム戦争のような差別を描いたんだと解釈したが、そうとも言い切れないだろう。
クリスという兵士が平和な病院から隔離されたのだと考えるべきだ。つまり、彼はすでに外の住民になっていたわけだ。
仇であるムスタファを殺害するために2000Km離れた所から射殺するシーンで彼は外において誰にも負けないヒーローになった。すべてを終えてアメリカに、家庭に帰るクリス。ただ彼は内には変えれなかった。
このシーンは巧みである。初めクリスがテレビを見ているように映す。戦場の音が聞こえ、ニュースを見ているようだ。カメラが動きテレビの画面を映す。そこには何も映っていなかった。戦場の音はクリスの頭の中でだけ鳴り響いていたのだ。
このシーンはクリスが内の世界に戻れていないことを鮮明に描写している。
しかし、面白いのはここからだ。あるできごとから病院に行ったクリスは退役軍人と出合いその交流のうちに内での生活に適合していく。穏やかな暮らしを取り戻し良き父親になる。ただそれは外で研ぎ澄まされた感覚を失ってしまうことを意味していた。最後にクリスはあっさりと殺されてしまう。それは彼が内の住民に戻った証である。

総括するとこの物語は家庭と戦場両方にいようとした男の破滅である。ただ、それは戦争批判のためでも、戦争プロパガンダのためでもない。イーストウッドは新しいヒーローを自分の中で作りたかったのではないか。氏の代表作であるダーティハリーは内を持たない男だ。毎回女性と関係を持ってもそれが進展することはない。内を作ることが自らを弱らせるのだと直感的に理解しているように。ハリーと敵対した組織が彼の家族や恋人を人質にとることはせず彼本人を狙わなくてはいけないのもそのせいであり、だから毎回返り討ちにあうわけだ。あまり量見たわけではないがウェスタン映画やハードボイルド作品のヒーローには概してそのような印象を持つ。
しかし、クリスは違う。彼は外と内のヒーローになろうとした。それが外の敵と戦うだけよりも遥かに難しいことを理解しながら。
グラントリノもそうだが氏は新しい西部劇、そして新しいヒーローを描こうとしているのではないだろうか。
クリスの試みは失敗かもしれないが、その試みがこうして映画かされそして大ヒットしたことには大きな意味を持つだろう。


所でイーストウッド監督は女好きで有名なのだが、彼はナンパの時にアメリカンスナイパーの話をしたのだろうか。
「ほら、俺の〇〇がアメリカンスナイパーさ」とか
言ってないな。だって言わなくてもモテるから。
今回はここまで次こそ後編書くよ。またね!